■議会報告

●平成30年6月定例議会
質問(再度13回目)
子供を取り巻く環境ですとか、あるいは問題ですとか、そういったことは複雑化の一途をたどっているのだろうなというふうに考えています。ぜひ子供を守る、子供を救うという観点から取り組みを今後もしっかりと進めていただければというふうに思います。
それでは、時間が大分たってまいりましたので、次の4項目めについては質問ということではなくて、要望ということにとどめさせていただきたいと思いますけれども、1点目の戦略的誘致策の立案について、現状でもモニターツアーの開催ですとか、その県とか、5市1町のかかわりの中でモニターツアーとか、あるいはベトナムの旅行会社ですとか、そういったことの取り組みをしているということですので、ぜひターゲットをうまく絞って、どういった、それぞれの外国人、いろんな国の方はいらっしゃると思いますけれども、それぞれの方々を総花で対応しようということではなく、ある特定の国の人とか、うまくセレクトしていただいて、越谷の魅力、どういう方には越谷にあるものが魅力として映るのか、そこの魅力として映るものをしっかりとその国の人たちに対して発信をしていくような、そういう取り組みをしていただければというふうに思いますし、また3点目の公共交通路の情報の発信という部分では、鉄道については先ほどご答弁ありましたように、5市1町の枠組みの中で、まず鉄道については発信もしているということですし、そこには一部バスでこういうふうなということもありますが、実際越谷に参りますと、新越谷、南越谷の駅でもそうでしょうし、あるいは越谷駅でもそうですけれども、例えば越谷の魅力の一つである花田苑ですとか、能楽堂にバスで行こうと思っても、実は駅でおりてもバス停はあるのですが、バス停は全部日本語の表記になっていますので、どのバスに乗ればそこに行けるかがわからないですし、どこでおりればいいのかわからないということもあります。この辺のところは民間のバス会社でのバス停とか、バス案内ですから、市が直接どうこうできるわけではありませんけれども、ぜひ今後外国人観光客が越谷にたくさん来るのを想定しながら、民間のバス会社とも連携する中で、そういった情報の発信の仕方についても検討を進めていただければというふうに思います。これこの4項目めについては、要望にとどめさせていただきます。
それでは、最後、5項目めの歴史的遺構の保護と魅力発信について、再度教育長にお伺いをしたいと思います。
まず、1点目の増林中妻遺跡なのですけれども、専門家の方々の話では、さきたま古墳群が行田にございますけれども、東京の足立区に伊興遺跡というものがあって、私も先日お邪魔させていただきましたが、この伊興遺跡というのは、縄文時代のころ、今から4,000年ぐらい前からそこに人が住んでいて、大体最盛期がさきたま古墳群、獲加多支鹵大王の名前が入っています鉄剣が稲荷山古墳から出てきていますけれども、大体そういった時代ぐらいまでが主に人がいて、その伊興遺跡では活発な活動があったのだというようなことが示されています。川の流れでいいますと、海から行くのか、それとも上のほうから行くのか、それは捉え方あれですが、行田のほうから海に下るにしても、あるいは東京から海から川をさかのぼっていくにしても、その伊興遺跡と行田のさきたま古墳群、両方は関係性があるのではないかと伊興遺跡のところの資料館にはいろいろと見解が述べられているわけですが、その間のところにあるのが発見をされました増林中妻遺跡と、川筋が今と昔とは違いますので、増林中妻遺跡というと、新方川の脇かというふうな感じにも受けとめられますけれども、実際には元荒川、昔の荒川がそちらあたりまでぐっと蛇行をしていて、久伊豆神社の向こう側を回るような形で蛇行していてということなので、ある意味ではこの増林中妻遺跡、今後しっかり調査をしていくと、実際には発掘をされないようなのですけれども、やっていけば相当なことがある意味ではわかるのかというふうに思っているのですが、調査をする考えは今のところないということなので、ここでは1つ別の意味で確認をしたいと思いますけれども、そういった増林中妻遺跡、4世紀初頭の遺構、遺跡だということなのですが、同時代のものがこの埼玉県の東部地域ではどういったところにそういうものがあるのか、あるいはないのかということについてお伺いしたいと思います。
市長答弁
ただいまのご質問につきましては、教育総務部長よりお答えをいたします。
教育長答弁
それでは、お答えを申し上げます。
増林の中妻遺跡と同時期の遺跡につきましては、埼葛地域で申し上げますと、約210カ所ほどが確認されているということでございます。このうち、中妻遺跡と同様、低地であります自然堤防上に立地する遺跡については、約30カ所と発見例が少ないという中で、久喜市の青毛西遺跡、杉戸町、上椿遺跡、春日部市、沼廻遺跡などが知られているということでございます。
なお、自然堤防でございますけれども、これは洪水時などに河川の流路沿いまたは周辺に砂などが堆積をしてたできた帯状の微高地とされておりまして、昔、議員さんございましたように、元荒川が御殿町から花田のほうを迂回して東越谷に至る湾曲した流れであったため、増林地内にも元荒川の自然堤防が存在し、この遺跡が形成されたというふうに考えられているということでございます。以上でございます。
質問(再度14回目)
ご答弁ありがとうございました。時代的に言うと、その4世紀前半ごろ、初頭ごろというと、埼葛地域にそれなりに数、それなりにといいますか、200以上数があるということでございますが、自然堤防上というような部分で言えば、それほど例がないということなので、先ほどから繰り返しになりますけれども、川の流れで考えた際に、さきたま古墳と東京、実際には当時は東京とは言いませんし、江戸とも言ったかどうかわかりませんけれども、その海に向かって流れていく途中に増林中妻遺跡、さらには伊興遺跡というものがあったということでの歴史的な事実としては確かだと思いますので、ぜひいろいろな機会を通じてこの増林中妻遺跡の自然堤防上にあるということの意味合い、あるいはその価値ということについてもぜひ研究を進めていただければというふうに思います。
それでは、続きまして2点目の越ヶ谷御殿跡についてお伺いしたいと思いますが、この越ヶ谷御殿跡というのは、その増林中妻遺跡からそれほど遠くない場所なのかなと思いますが、文献によれば増林の城之上という場所にあった建物を会田出羽守という人物が慶長年間に今の御殿町の場所に移したのだという話になっています。その意味では、増林という地域が昔も今も、昔も今もというか、古い昔から比較的新しい昔まで増林という場所が非常に重要な場所であったのかなというふうに考えていますが、それはそれとして、この越ヶ谷御殿跡ということで再度お伺いしたいと思います。
こちらもやはり川のそばにあったわけですけれども、いろいろと徳川家康が越谷にも来ていた。私の個人的見解では、その当時の荒川、荒川の手前のところにいることがきっと江戸からの何か危急な問題が発生した場合に、江戸には帰りやすい。荒川の向こう側、北側に渡るよりも、手前側にいたほうがいいというような判断でそこの場所にしたのかもわかりませんし、あるいは会田出羽守という人物がその越ヶ谷御殿をつくったその場所に、もともと何か別の特殊な要因、ここにあったほうがいいのだというような意味合いでつくったのかもわかりませんけれども、その辺のところはなかなか今後も発掘調査をしていかなければわからないことだとは思うのですが、差し当たって、越ヶ谷御殿跡から出土されたもののその価値というものが学術的にどうであるのか、出土品が学術的に見て、どういう価値があるのかということについてお伺いをしたいと思います。
市長答弁
ただいまのご質問につきましても、教育総務部長よりお答えをいたします。
教育総務部長答弁
お答え申し上げます。
平成27年の調査では、越ヶ谷御殿に関係する成果は残念ながら得られませんでした。御殿町地内には市指定の文化財であり、市内最古の板碑である建長元年板碑が存在をして、また文献からは越ヶ谷御殿設置以前に、会田出羽屋敷が存在していたとされておりまして、越ヶ谷御殿設置以前から人々の営みが行われたということが推察されておるわけでございます。
発掘調査では、土器、陶磁器、板碑、木製品が出土し、板碑や陶磁器の中には越ヶ谷御殿設置以前の年代を示すものがございました。出土品個々の価値につきましては、詳細な調査をしなければ正直わかりませんが、発掘調査により、初めて御殿町設置以前の歴史があるということが証明されたということが現時点の内容でございます。これら越ヶ谷御殿町も含めまして、先ほどさきの1件目のご質問でございました増林の中妻遺跡、それからその他の市内の文化財を含めまして、今ホームページ上で現在教育委員会のほうで所蔵している写真等を含めまして、ホームページの充実等々を考えてございますので、それらの周知も図っていきたいと、このように考えてございます。以上でございます。
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